ヴィデオゲームがデザインであることは間違いない。これらは自動車の機械系のようなシステムを持つ洗練されたヴァーチャルマシンだ。だとすれば、MoMAがフェラーリやフォード「モデルT」、フォルクスワーゲン「ビートル」などをコレクションに加えることに疑問を抱く人がいるだろうか?
優れたデザインの自動車のように、秀逸なヴィデオゲームは人々の心を異なる世界に導く(もちろん「グランド・セフト・オート」のような自動車ゲームへの理解に関する話ではない)。
ゲームはときにデザインを超えてアートの領域に入り込むこともある。これは、ある場所から違う場所に物理的に連れて行くという自動車の機械的機能に対し、ゲームには物語があるからだ。プレイヤーが進める物語は、ゲームオーヴァーまで続く。それこそが、ヴィデオゲームがアートのように(ジョーンズ氏の定義で言うと)「個人の創造を掻き立てる」部分だ。
ヴィデオゲームは人々を心の旅に導く。そして優れたゲームほど、この旅は受動的なものではなく、よりインタラクティヴにコントロール・経験できるものになる。つまりゲームクリエイターは、自らの個人的な視点をプレイヤーに押し付けるのではなく、プレイヤー自身が個人的経験を築いたり、アートのように「問いかけ」をする余地を与えるのだ。
これはゲームに対する真面目くさった、うやうやしい賞賛などではない。ゲームとはそういうものなのだ。
今回はラリー・ウォール(1954年生まれ)とラリー・テスラー(1945年生まれ)をご紹介します。
ラリー・ウォール。wall.orgなんてドメインを所有している、それだけでなんか神々しい人物。プログラム言語Perl(パール)の開発者である。西海岸のフラワームーブメントを体現するかのような風ぼうを持つ彼のことをクロスビー・スティルス&ナッシュの一員だと言っても誰も疑問に思わないかもしれない。リチャード・ストールマン(Richard Matthew Stallman, 1953年生まれ)しかり、この時代のプログラマには何か共通のメタファーを感じざるを得ないのは自分だけではないだろう。そう、俗にアーティストと呼ばれる職業の人間が持つ、独特の雰囲気があるのだ。浮世離れした風ぼう、数マイル先まで見えていそうな眼。もしかしたらプログラミングというのは芸術の一種だということの証左なのかもしれない。
もう一人はラリー・テスラー。彼がゼロックスのパロアルト研究所にいたとき、ある人物を所内に案内をしたことがあるらしい。その人の名はスティーブ・ジョブズ(1955年生まれ)。このパロアルト研究所への訪問がMacintosh(マッキントッシュ)の製作を大いに啓発したといわれている。なんとも歴史的な橋渡しをしたのがテスラーなのである。テスラーはその後、Appleへ入社。1980年から1997年まで勤務し、最後はチーフ・サイエンティストの肩書を最後にその職を辞している。2001年にはAmazon.comに入社、2005年には米国のYahoo!に移り、UED(ユーザー・エクスペリエンス・デザイン)を主導し、現在はマウンテンビューの会社、23andMeに在籍している。Macintoshの本流にいた人物がこうしてウェブの世界に魂を注入してくれているのは頼もしい限り。